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高倉健、井上陽水など
のインタビュー掲載





  高倉健さん死去・・・「強い男、貫いた最後のスター」

                                          2014年11月30日  1:18


  

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 高倉健 

 高倉健さんが11月10日、悪性リンパ腫のため死去していた。83歳だった。

 悪性リンパ腫と言われても、ぼくにはピンとこないのだが、調べてみると
 血液のがんで同じ血液のがんである白血病と同様の扱いとの事。

 ● 器用だとおもってた
 健さんは1931年福岡県生まれ。明治大学を卒業後、東映のニューフェイ
 ス第2期生として映画界に入った。
 翌年に沖縄の唐手が舞台となっている「電光空手打ち」の主役で銀幕デ
 ビューを飾った。

 その際に映画プロデューサー・マキノ光雄の知人から「高倉健」と芸名を
 つけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が
 気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デ
 ビューともなった。

 採用から1か月半で主役デビューといういかにもトントン拍子に思えるの
 だが、そこには自分がいかに不器用かと、突き付けられた一つの挫折が
 あった事が、ノンフィクション作家の沢木耕太郎とのインタビューで語られ
 ている。(健さんが53歳か54の頃のインタビュー)

 高倉:いまでも不器用だと思いますけど、僕ほど不器用なヤツって少ない
 んじゃないですかね。 

 沢木:最初から、自分は 不器用だと思い込んでいらしたんですか。

 高倉:以外と自分は器用だとおもってたんです(笑)。
 東映の場合、新人は俳優座へ委託で預けられるんですね。一年の養成
 期間がありまして、六か月が俳優座で、あとの六か月が撮影所の京都と
 東京に分けられるんです。

 僕は俳優座に二ヶ月通ったんですが、その二ヶ月間でいかに自分が他の
 人と比べて不器用なのかというのを、本当に思い知らされましたね。
 バレエをやってもできない。日本舞踏をやってもできない・・・・・・。

 僕と今井健二君のふたりがみんなより一ヶ月ぐらい遅れて入ったんですけ
 ど、そのふたりがやるとみんな笑って授業にならないんです。僕らは一生
 懸命やっているんですけど・・・・・・・・。

 沢木:それがよけいおかしいわけですね(笑)

 高倉:おかしいんですね。授業にならないから見学していてください、あな
 たたちがやるといつまでたっても授業が進まないからと、それは非常に自信
 を失いましたね。

 沢木:自信を失って、役者をやめようなんていう気にはなりませんでしたか。

 高倉:飯が食えなくなっちゃいますからね。向かないから、あなたはやめた
 ほうがいいと言われましたけど、いえ、僕はやめるわけにはいかないんです
 よって、そんな具合でした。

 ただ、二ヶ月くらいで僕に役が来ちゃったんですよ。『電光空手打ち』という
 映画がね。それで卒業公演も何もやらないまま、ずっと撮影所での仕事が
 続くことになって、いままで来てしまったわけです。


 ● 昼は学生運動、夜は健さんの映画
 その後は「網走番外地」や侠客伝シリーズで次々と主演を務め、映画館に
 観客が殺到するほどの爆発的な人気を博した。社会の矛盾に斬り込み、
 自らの信念を貫くというアウトロー像は、安保闘争に明け暮れる当時の
 若者を鼓舞し、熱狂させたという。

 その、「網走番外地」というの映画に対しての健さんの心意気が熱かった。
 「網走番外地」ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の
 映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画で
 モノクロ作品にすると社長の大川博に言われ、意見すると「嫌なら主演を
 梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。

 仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の石井輝男がなかなか
 やって来ない。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から
 雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒット
 させるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもする
 ぞ」とスタッフに漏らし、『網走番外地』シリーズは計18作の大ヒット
 シリーズとなったという。

 それは「社会現象」とも言うべき狂騒で、昼は学生運動に携わり、夜は健
 さん主演の映画を見た後で、ネオン街を肩で風を切って歩く若者の姿が
 日本全国で見られた。

 本人は、年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回
 繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊していた。
 また、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。

 そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった
 観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影
 させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を
 受けたという。

 これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、
 僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても
 (映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が
 違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている

 デビュー20周年にあたる1976年に東映を退社。
 同年公開の「幸せの黄色いハンカチ」では、刑期を終えて出所してきた
 元受刑者を演じた。その映画は、第1回日本アカデミー賞や第51回キネマ
 旬報賞などのその年の映画賞を総なめにした。

 ぼくもこの映画は好きで、武田鉄矢はこの映画で俳優デビュー。
 彼がその後、ドラマ、映画で活躍するきっかけとなった作品でもある。
 武田鉄矢はこの映画が自分のベスト作品だったと、語っている。

 最後の作品となった「あなたへ」(2012)までに、「遙かなる山の呼び声」
 「八甲田山」といったヒット作を含む205本の映画に出演。テレビドラマ
 にはほとんど出ることなく、生涯「映画俳優」であることを貫いた。
 映画史においては、日本のスター・システムの終わりを見届けた俳優、と
 位置づけられよう。

 しかし、高倉健さんの心の中では映画俳優を極めた事に関してすっきり
 しない心の内を同様に、沢木耕太郎にインタビューでこのように述べ
 ている。

 「すごく恥ずかしいのですが、この三、四年ですか、自分が追いかけて
 きたのは何なのかなと、まったく見当がつかなくなっちゃったんですね。
 自分が心から望んでいたものと違ってしまったんじゃないかという気が
 するんです。

 お金も、日本でいちばん高いギャラがとれる俳優に、とにかくなりたいなと、
 非情に単純な、志の低い俳優で二十何年きましたけど、なんとなくその
 上位のほうにいまきちゃっているというのがわかったら、それじゃないんで
 すよね。

 では賞かというと、賞も運がよくて、この何年間でいくつかいただきました
 けど、それでもない。何を追いかけてきたんだろう・・・・・・
 わかんないんですね。」


 ● 私生活は徹底して秘めて
 高倉健さんの訃報は海外メディアも速報で伝えている。
 1989年、米映画「ブラック・レイン」で、マイケル・ダグラスと共演したことか
 ら、Ken Takakuraの名は米国でも広く知られている。

 プライベートでは1959年、当時人気歌手だった江利チエミと結婚したが、
 1979年に離婚。以降は独身だった。2006年度文化功労者。2013年には
 文化勲章を受章した。

 高倉健さんに関する各コメントや思い出の記事はどれもが、興味を惹かれ
 る言葉がある。その中でも脚本家・倉本聰(くらもと・そう)さんが述べて
 いたエピソードが僕には心に残った。
             
               *                

 健さんとは、話をしていると5分か10分、間(ま)ができてしまうことがしょっ
 ちゅうある。それに慣れるのが大変でした。あんまり黙ってし
 まうので、気を悪くしたんじゃないかと思ってつい何かしゃべろうとする
 のですが、ご本人は5分前に交わした会話をずっと考え込んでいるんです。

 ものすごく慎重に考えて話をする人でした。九州男児ですが、お父さんか
 ら、男は一生で二言、三言、しゃべればいいんだ、と教育を受けていたら
 しい。本当にそういう感じでした。

 あれだけ本気に映画に向かわれる方は、そうはいないと思います。1本の
 作品に向き合ったら、それ以外は何もしない。かけ持ちなんてしないで、
 何年かに1本ですからね。

 最後のスターですよね。今はマスコミがみんな私生活を暴いてしまいます
 が、彼はそれは絶対に嫌だったから、私生活に関しては徹底して秘めてい
 た。あそこまで秘めている方は、ほかには原節子さんくらいでしょう。

 それに、もうお年なんだから老人の役をやりませんかと話しても、絶対に
 受けなかった。断固として老人役は嫌だという態度を最後まで貫いた。
 強い男のイメージを崩したくなかったんでしょうね。そのままお墓に持って
 いってしまいました。(談)

 ● ホントに英語がうまい、ジョークも上手
 週刊文春12月4日号は、高倉健ドキュメント「最後の日々」と題して追悼
 大特集。
 その特集の後に、『男が痺れた女が惚れた「健さんと私」』というタイトルで
 各界の21人がエピソードを披露している。

 その中で、3名のエピソードが印象に残ったので、抜粋して紹介していき
 ます。

 ◇まずは歌手の矢代亜紀
 
 健さんは、私にとって芸能界で一番の恩人なんです。
 私は、1971年から2年間、「高倉健ショー」の前唄(前座)をさせていただい
 ていました。私はまだ二十歳そこそこの小娘。売れる前の下積みの頃です。
         (中略)
 ひとりぽっちの長崎までの道中がとても不安で、マメだらけの手でトランク
 を引っ張りながら大阪駅から夜行列車に飛び乗りました。そして、朝方に
 長崎駅に着くと、健さんが心配して待っていてくれたのです。
 「さあ、珈琲を飲みなさい」

 こう声をかけ、私のために差し入れまで持ってきてくださったのです。当時、
 まだ無名だった矢代亜紀にこんなに優しくしてくださったことにとても
 感謝しましたね。私はその時、「一流の歌手になったら絶対に人に優しく
 するぞ」と心に誓ったのです。

 それだけではなく、前唄の私に向かって「勉強をさせてもらいます」とまで
 おっしゃっていました。健さんの立ち振る舞いを見て「本当の大物は人格
 者なんだ」ということを学びましたね。

   高倉健

 ◇お次は、美術家の横尾忠則

 四十七年―――。
 僕が高倉健さんとお会いしてからの年月です。

 僕が若い頃はヤクザ映画の全盛期で、土曜日は必ず、新宿の映画館に
 オールナイトを見に行っていた。僕は健さんの大ファンで、ずっと会いたい
 と願っていた。
 ポスターも自主制作で作っていたくらいですから。

 当時三十歳くらいだった僕は、知人の伝手を辿ってようやく健さんに会え
 ることになり、待ち合わせ場所の赤坂にあるホテルの喫茶店に行きました。
 健さんは僕の姿を見つけるなりサッと立ち上がって、直立不動の状態で
 「高倉健です」と、にっこりきれいな歯をみせて笑われました。
                (中略)
 その時、僕は思い切って「健さんの写真集を作りたい」と言ったんですね。
 そしたら、横にいた東映のカメラマンに「全作品のスチール写真を横尾さ
 んに渡してくれ」って言われた。即答でした。それで三百七十ページにも
 及ぶ『憂魂、高倉健(七一年制作)を作ることになったのです。
                (中略)
 ただ、最近はお会いしていなかった。訃報を聞いた時、僕はたまたま健さ
 んからいただいたTシャツを着ていたんです。Tシャツを通して健さんと一体
 になっていくような感覚で、胸が締め付けられるようでした。
 最後にもらった手紙には『引退はしません、楽しみます」と書いてあった。
 まだまだ健さんの映画を観られると楽しみにしていたので、残念でなりま
 せん。

 ◇最後に漫画ドラゴンボールに出てくる亀仙人にそっくりなロックンロー
  ラーの内田裕也


 健さんとは『ブラック・レイン』で共演したんだけど、最初、オレはあの人にも
 ツッパッてたね。健さんは若い頃から知ってたけど、あんまり近づかないよ
 うにしてたのよ。健さんをヨイショする人たちが多いしさ、こっちもロックンロー
 ルでリーダーシップとってきてるから、そんなペコペコする必要ないと思って
 さ。
 でも、共演してみて健さんのすごさがわかったよ。

 オレが言いたいのは二つ。
 健さんはホントに英語がうまい。外国人のスタッフも多かったけど、あの人の
 英語はクリアで、グラマーもちゃんとしてた。まさしくブリティッシュ・ジェントル
 マン(英国紳士)だったよ。オレなんか、すぐ「Fuckin!」とか使っちゃうけどさ。

 そして頭がいいから、ジョークも上手なんだ。
 笑ったのはさ、松田優作、安岡力也、ガッツ(石松)さんとかと一緒にかたまっ
 て食べてたの。最初、健さんはその輪に加わらなかったんで、「何だよ、大ス
 ターはカッコつけて自分のバスで食ってんのか」なんて言ってたわけ。

 そしたら、突然健さんが輪に入ってきてさ、
 「こんないい所があったんですか」って。最初から知ってるくせして、そういう
 ジョークを言うんだ。

 プロデュサーからあと数日でハリウッドに乗り込むという話が出た時も、健さ
 んがボソッと、「一体このメンバー、誰が仕切るんでしょうね」って、上手いタ
 イミングで笑わせるのよ。
            (中略)
 健さんは自分について何も語らないけど、こう言っていたのを覚えているよ。
 「(映画に映る)画面がすべてだから」

           

 参照:高倉健さんが死去──日本のスター・システムの終わりを見届けた俳優
      高倉健さん死去 倉本聰さん「強い男、貫いた最後のスター」

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